真琴はその日、空港の入国ゲートの前に立っていた。待つこと数分、定刻通りイタリアからの便が到着し、たくさんの人がゲートから出てくる。
「久納さん」
待ち人の姿を発見し、小さく手を上げる。彼も気付いたようで、こちらに真っ直ぐ歩いてきた。
「お疲れ様です」
久納に会うのは二ヶ月ぶり。久しぶりに会う恋人を前に、嬉しさと気恥ずかしさが入り混じった落ちつかない気持ちになる。
「久しぶりだな。変わりはないか?」
「はい」
久納の厳しい顔がかすかに和らぐ。自分の存在がそうさせているのだと思うと、真琴の顔も自然と綻んだ。
久納と真琴は迎えの車まで並んで歩いた。
次に会った時に聞こうと思っていたことがたくさんある。けれどこうして実際に彼を前にすると喜びで胸がいっぱいになり、質問事項など吹き飛んでいた。
しかし、久納と一緒にいられる時間は数日しかない。短い休暇を終えたら、久納はまた仕事で世界中の国を行き来する生活に戻る。次に会えるのはまた何ヶ月も先になるだろう。
それがわかっているから限られた時間を有効に使おうと考えていたのに、ずっと会いたくて焦れていた恋人を前にしたら言葉が出てこなくなってしまった。
真琴が、何か話さなくては……、と考えを巡らせていると、先に久納から話しかけられた。
「その色、よく似合っている」
何を言われているのか一瞬わからなかったが、どうやら服装を褒めてくれたようだ。
真琴が今着ているのは、ブルーのテーラードジャケットに白いシャツ、下はブラックに近いネイビーのパンツ。少し若づくりな気がしていたが、久納に褒められて素直に嬉しい。
真琴は照れたようにはにかみながら打ち明けた。
「実はこの服、職場の同僚に選んでもらったんです。今日、久しぶりに恋人に会うと言ったら、少しはお洒落した方がいいと言われて……」
以前、吾妻には恋人から連絡が来ないという相談に乗ってもらった。結果的にお互い遠慮して電話出来ずにいただけだったので、その後は一、二日おきくらいの頻度で連絡を取り合うようになった。
そうしたことから時々、その後順調か聞かれることがあったのだが、今回恋人と会うということを話したら吾妻の方から服の見立てを申し出てくれたのだ。
初めは断った真琴だったが、言いづらそうに「まこっちゃん、服の趣味が独特だから……」と指摘され、いつだったか事務員の藤沢にも同じような指摘をされたことを思い出し、吾妻に任せることにした。
元々、真琴はあまり服に興味がなく、仕事着のスーツは何着もあるが、私服は数枚しか持っていなかった。それも、着古したものばかり。
だから正直、吾妻の申し出はとてもありがたいものだった。
そして吾妻に上から下まで見立ててもらい、その格好で今日久納を迎えに来た。いつもより明るい色の服のため不安もあったが、久納のお眼鏡にかなったようで安堵する。隣を歩く久納に恥ずかしい思いをさせずにすむ。
ところが嬉しそうに微笑む真琴を見て、久納は眉間に皺を寄せた。急に口をつぐんだと思ったら、行き先も告げられぬまま車に乗せられる。車内で何度か話しかけたが、久納は短い返事をするばかりでまるで会話が弾まない。不機嫌な顔で黙り込む久納の様子に、真琴の口数も減っていく。
やがて重苦しい空気に包まれたまま、車はホテルの前へ横付けされた。真琴も久納の後について部屋に入る。
以前滞在していたホテルとは別の、都内の高級ホテルのスイートルーム。久納は部屋に着くなり上着を脱ぎソファへ放り投げた。
真琴は久納の纏う不機嫌な空気の理由がわからず、部屋の隅で立ちつくしていた。
すると久納が振り返り大股で近づいてきたかと思ったら、おもむろに真琴の着ていたカーディガンを剥ぎ取ったのだ。
「く、久納さんっ?」
突然のことに驚いて声が上ずる。
いったいどうしたのだろう。何か彼の気に障る事をしてしまったのだろうか。
真琴が困惑している間にも、久納は無言で次々に服を剥いでいく。なすがままになっていた真琴だが、上半身から全ての衣服を奪われ、さらにベルトに手をかけられたところで久納の手首を掴んだ。
「久納さん、どうしたんですか?」
一刻も早く恋人に触れたくて、というのなら嬉しいが、これは違う気がする。久納の瞳は自分を映していない。真琴のことではなく、別のことを考えているように感じた。
「せっかく会えたのに、こんなふうに触れてほしくないです」
真琴は久納を見つめ、思っていることをそのまま伝えた。
久納は真琴の真っ直ぐな眼差しを受け止め、やがて身体から力を抜いた。身をかがめ自らの手で床に落としたシャツを拾い上げると、真琴の肩に着せかけてくれる。
「すまない」
久納は真琴の肩に手を置いたまま、難しい顔で謝罪を口にした。見上げた淡褐色の瞳には、もう激情を宿していない。
真琴がホッと息をつくと、久納が視線をさまよわせながら綺麗にセットされた髪をかき上げた。
「私としたことが……、嫉妬に目がくらんでしまった」
「嫉妬?」
久納は気まり悪そうな顔をしながらも、ちゃんと説明してくれた。
「お前が私以外の人間が選んだ服を着ていることが、許せなかったんだ。怖がらせてすまなかった」
「久納さん……」
「お前は何も悪くない。これは私の我が儘だ。お前を着飾るのも、恋人である私だけの特権だと思っていたから……」
なんだろう、胸がむずがゆくなる。不快ではないのに、落ちつかない気持ちになった。
彼に嫉妬してもらえて嬉しいと、そんなことを思ってしまう自分が恥ずかしい。けれど、これが事実。
久納だって、恐らく言いづらかったはずだ。それでも自分の不安を取り除くために言ってくれた。
それがわかったから、真琴も気恥ずかしさを押し込めて、正直な気持ちを伝えようと思った。
真琴は背伸びをして、自分のそれで久納の唇を塞ぐ。
「……何をしているんだ」
彼が着せかけてくれたシャツを自ら落としベルトを抜き取ると、久納が訝しげな視線を送ってきた。真琴は羞恥心を押し込めながら、自らパンツを下げ下着一枚という無防備な姿になる。
「おい?」
久納は珍しくうろたえていた。真琴が何をしたいのか、まだ彼には伝わっていないようだ。
真琴は深く息を吸い込み言葉を発した。
「これでいいですか?」
「いや、もういいんだ。私が悪かった。服を……」
「よくありません」
再びシャツに手を伸ばそうとする久納を遮る。彼の視線がこちらに向く。真琴は目を逸らすことなく続けた。
「僕はあなたに嫌われたくない。あなたが嫌だと思うことはしたくないんです」
「嫌いになどならない。私が勝手に嫉妬しただけ。私の器が小さかったというだけのことだ」
真琴は頭を左右に振った。気持ちを上手く言葉に出来ないことがもどかしい。
「あなたの傍にこうしていられるだけで幸せです。でも、僕にはこの先もあなたを繋ぎ止めておく自信がない。だから、嫌われないように努力しようと決めたんです」
少しでも長く自分に引き止めておくために、会えない間に真琴は考えた。本当はもっと好きになってもらうために努力したい。けれど、どうしたらいいのか具体的に思い浮かばず、それならせめて嫌われないようにしようと思ったのだ。
想いの丈を全て伝え久納を見つめていると、いきなり両目を手で覆われた。驚いて無意識にそこに手の平を重ねると、久納に「このままで」と制止され、真琴は大人しく従う。
久納はたっぷり間を置いた後で言葉を発した。
「そんな目で私を見るな。そうやって素直な感情をストレートにぶつけられると……困ってしまう」
最後の一言が胸に突き刺さり、真琴は息をのむ。
「……すみません」
絞り出した言葉は謝罪だった。
自分の想いが彼の負担になっている。
それはとてもショックなことだったが、彼を困らせたいわけではない。
ところが、真琴が震え出した唇を噛みしめると同時に、久納が予想外の言葉を口にした。
「お前に見つめられると、自分の感情をコントロール出来なくなってしまうんだ。年甲斐もなく恋に浮かれて、仕事も何もかも放り出してしまいそうになる。お前の恋人として恥ずかしくない男でありたいと思っているのに」
「そんな……。それは、僕の方です。あなたの隣に立つのにふさわしい人間にならなくちゃって……」
久納がフッと笑う気配がした。そしてようやく目隠しを解かれ、その瞳に彼の姿を映すことが叶った。
完璧に見える恋人は、自嘲気味に笑いながら打ち明けてくれた。
「私はお前が思っているほど、上等な人間でも、出来た恋人でもない。恋人の同僚にさえ嫉妬する、恋に狂ったただの男だ」
その言葉を聞いた瞬間、胸が強く締め付けられた。
そして彼が自分をどれほど想ってくれているのか、それを本当の意味で悟った。
――彼ほどの人でも、不安になるんだ。
容姿に恵まれ、仕事もでき、社会的に成功者と言われるような男でも、恋をすれば臆病になる。
失いたくないから。
その対象が、自分のような平凡な人間だったとしても。
「……あなただけじゃない、僕もです」
考えるより先に口をついて出ていた。けれど久納は慰められていると思ったのか、複雑な顔をして黙り込んでいる。
真琴はもう一度、言葉を紡ぐ。
「僕も同じ気持ちです」
本心からの想いを伝える。
しばらくして久納が「かなわないな」とポツリと呟いた。
「どういう意味で……んっ」
まるでこれ以上、追及するなとでも言っているかのように、唐突に唇をキスで塞がれた。
「んぅ、ふっ……っ」
――ずるい。
この男はわかってやっているのだろうか。
こんなふうにキスされたら、他のことなどどうでもよくなってしまう。真琴は彼の全てを許してしまうのだ。
真琴は背中に腕を回し、恋人を抱きしめた。ついばむだけだった口づけが、途端に大胆になる。
「久納さ……」
「黙れ」
キスの合間に下された命令。
その低い声音に、六月の雨の日、探偵事務所で久納と顔を合わせた時のことを思い起こされた。
あの時はこうなるだなんて想像もしていなかった。
自分よりも年上の男を、こんなに愛しく思うようになるだなんて……。
久納にソファに押し倒され、圧し掛かられるだけでゾクリとした興奮が背筋を駆け抜ける。
「あぁっ」
素肌をまさぐられ、真琴は大きく胸を喘がせた。
我を忘れるほどの想い。
幸せなはずなのに、彼のことを想うと胸が甘く締め付けられる。
甘いだけで終わらない関係。
これが恋なのだと、今ようやくわかった気がした。
――終――
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